武豊の史跡を歩く① 武豊町
長野城址から月詠之森・武雄神社、醸造蔵を経て港へ。
武豊駅周辺には興味深い今昔物語がある。
武豊の史跡を歩く 武豊町
JR武豊駅へ。
ここはまさに長尾城のあった場所だ。
駅前に建つ胸像。
こちらは武豊駅の駅員だった高橋煕(ひろし)さんの顕彰像がある。
高橋煕さん
昭和28年9月25日の台風13号は猛烈で、東成岩と武豊間の路線を多く高潮で流してしまった。
それを知らずに列車は東成岩駅を出発、武豊に向かい走りだしていた。
もちろん、携帯電話も無線もない時代。
高橋さんは凄い嵐の中、列車に危険を知らせようと走った。
早く列車を止めないと大事故になってしまう。
高橋さんはカンテラ(灯り)を振り、発煙筒を焚き、必死に列車をとめようとした。
幸い運転手がそれに気づき大事故は回避できた。
しかし、高橋さんは高潮に呑まれて帰らぬ人となってしまった。
一年後、高橋さんの功績を称え、全国の鉄道職員と地元の小中学生の寄付により、
この像が建てられた。
長尾城はどこ?
この武豊駅も長尾城の一部だろう。
駅から半田方面を見ると、線路沿い西側の小高い一帯が見える。
そこから武雄神社までの細長い高台がお城だったと思えばいい。
城主は岩田氏、戦国時代までここ長尾村(武豊町の前身)を治めていた。
近所の長老は、「長尾村が緒川の水野氏に攻められた時、村が戦場になると村人を苦しめると憂い、岩田氏は城を明け渡し、自分は武雄神社の神主になった。おかげで村は守られた」という。
忠実はともあれ、村民から尊敬される長尾城や武雄神社だったことが偲ばれる伝承。
武豊名物は味噌蔵
武雄神社から徒歩5分。近々国の登録有形文化財の建物があるので行ってみた。
明治初期から続く、みそ・たまりの醸造元の中定商店さんだ。
文化財は、「大五蔵」「昭二蔵」「昭三蔵」んお3つの蔵。
「大五蔵」は二階建ての土蔵で、一階と二階を貫く太い二本の柱で支える建築様式が特長。
「昭二蔵」「昭三蔵」は、「キングポストトラスト」という洋風建築技術が特長でそれぞれ貴重。
「大五蔵」は、醸造道具や昔の資料を展示する「醸造伝承館」として利用。
桶の高さは約2mそこを改造した小部屋など見学できる。
港と鉄道の町だった武豊
武豊駅に戻り、昔の廃線跡をたどりながら転車台へ。
今は武豊駅が終点の武豊線だが、昭和40(1965)年までは約1㎞先の武豊港まで線路があり
列車も通っていた。
廃線の跡がはっきり残っていて現在はポケットバークになっている。
そもそも武豊線の目的は武豊港に入る東海道線施設の資材を運ぶために明示19(1886)年に敷かれた鉄道なのだ。
始発駅は武豊港だった。
港には味噌たまりの原材料の大豆の輸入船が入り、ライジングサンという大きな石油精製工場もあった。
武豊は港と鉄道の町だった。
そんな名残が廃線跡や転車台である。
次は武豊町の浦島太郎伝説を散策
KEIKOHanto公式ライター
生まれも育ちも知多半島。せこみち、露地、島、初物に感度良好。好奇心を糧に街歩きに日々勤しむ。
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