成岩城址を歩く
半田市の成岩。
ここにはお城があった事は意外に知られていない。
場所は有楽町6丁目の交差点の少し西。
住宅地のはずれに「成岩城址」の石碑が建っている。
成岩城址を歩く
石碑の他は城址らしいものは何もないが、地形的にはいかにも城砦に適した場所だ。
城の東側はすぐ海岸。衣浦湾。
城の南側には衣浦湾が入江となって入り込み、武豊方面と一線を画している。
北側は神戸川。
西側は今は花園町、青山町の住宅街だが、成岩城のあった天文年間(1540~)頃は雑木林の丘陵地だった。
すなわち、城の四方を自然の地形で守っている典型的な古城のたたずまいが想像できる。
城主:榎本了圓
僧侶で成岩の人々から慕われて、推されて城主になったという。
僧侶を城主に迎える背景には一向一揆などが見え隠れする。
しかし、天文12年(1543)に水野信元(家康の母・於大の兄)によって城は攻め落とされ、
水野の家臣梶川五右衛門が城主となった。
その梶川が豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に戦死、成岩城も廃城となったとのこと。
1600年には既に城はなかったことになる。
ところが、ここに建つ「成岩城址」の石碑は成岩町が昭和12年(1937)9月に建立している。
ここでピンと来るのは昭和12年10月は半田市が誕生した時期ということ。
半田町、亀崎町、成岩町などが合併して市となった。
南吉の書いた「鴻の松」
鴉根地区の高台にある君ヶ橋住宅の一角に「鴻の松跡地」の石碑がある。
ここに樹齢500年、高さ15m、幹周り4mという巨大な松の木が立っていた。
松の木は成岩や半田の街からはもちろん、衣ヶ浦からも見えて、航行する船の大切な目印となって、
「御用木」と呼ばれていた。
さらに江戸時代その木の上にコウノトリが巣を作ったことから「鴻の松」とも呼ばれていた。
南吉の名作「狐」は鴉根山が舞台。
南吉は鴉根の紹介に「狐」「松の木」「猟師」を出している。
その「松の木」がこの「鴻の松」だ。
昭和7年に枯れてしまったので伐ったのだが、その材木で作った座敷机などが成岩や板山の旧家に残っている。
名刹・常楽寺の応接間の天井の板もこの木が使われている。
榊原弱者救済所跡公園
明治から昭和の30年間で1万5千人もの弱者を保護した救済所が鴉根にあった。
おそらく日本初で日本最大の民営の救済施設だろう。
ここで暮らしたのは、貧しさのため捨てられた子ども、孤児。
重病や障害があって家を出された老人、重病人。
刑期を終えて出所したのに行き場のない出獄者。
不幸な身の上の女性。
そんな人たちが差別されることなく生きられる「新しい村」がここだった。
主宰者のは榊原亀三郎。成岩の人だ。
救済所の跡地が整備されて公開されている。
地元の鴉根の人が中心になって亀三郎の偉業を広く知ってもらうため「お祭り」もした。
まさに郷土の誇りともいえる場所が「榊原弱者救済所跡」だろう。
成岩。続きます。
KEIKOHanto公式ライター
生まれも育ちも知多半島。せこみち、露地、島、初物に感度良好。好奇心を糧に街歩きに日々勤しむ。
人気記事ランキング
最新記事
最新記事